異世界交遊記

「もう死んだ方がマシと思うほどの絶望の中にこそ、あなただけの情熱が眠ってる」
ザ・メンタルモデルの著者 由佐美加子と超生命体べーやんが語る“人間の進化”(前編)

2020年10月12日

痛みを願いに変える人類未踏の学校『メンタルモデルアカデミア』が2020年9月17日に爆誕しました。
奇天烈なコンセプトに違わず、学長には異世界から地球にやってきた超生命体ベーやん氏が就任しています。
今回はベーやん学長の熱烈な要望により、メンタルモデルの第一人者由佐美加子氏との対談が実現。
本記事はそんな二人(正確には一体と、一人)の人間観が炸裂し合う未曾有の舌戦に直撃しました。

後編はこちら

メンタルモデルの第一人者由佐美加子氏

由佐美加子(ゆさみかこ)
幼少期からヨーロッパ、アジア、米国で育ち、米国大学卒業後、国際基督教大学(ICU)修士課程を経て ㈱野村総合研究所入社。その後㈱リクルートに転職し、事業企画職を経て人事部に異動。次世代リーダーのあるべき姿を模索する中でMIT上級講師ピーター・センゲ氏が提唱する「学習する組織」と出会う。以降、ソーシャルテクノロジーと呼ばれる最先端の人と組織の覚醒と進化の手法を探求し続ける。2005年Appreciative Inquiry(AI)を生み出したデビッド・クーパライダー教授が教える米国ケースウェスタンリザーブ大学経営大学院で組織開発修士号を最高成績で修了。出産を経て2006年よりグローバル企業の人事部マネジャーとして人材・組織開発、新卒採用・育成を担う。2011年に独立、3年後に合同会社CCCを設立。いい・悪い、正しい・間違っているという二元的な世界観に立脚した生き方ではなく、すべてが”ただある”という内なる世界の受容と自己愛を源とした「全体性」から生きるための智慧や手法を生み出し、統合して個人や組織の覚醒と進化を様々な形で支援している。 オットー・シャーマー著「U理論」訳者。「ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー」著者。「無意識がわかれば人生が変わる - 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される -」著者

- -今日は “人間の進化”をテーマに色んなお話が聞けたらなと思います。少しふわっとしたテーマではありますがベーやん学長からのご希望です。基本的にはベーやん学長主導でお話を進めていただければと思います。

ベーやん学長
ベーやん学長
はじめましてだの!
由佐氏
由佐氏
はじめまして~。毛並みがいいね(笑)
ベーやん学長
ベーやん学長
モヘッ!良き目の付け所をしておるな!
由佐氏
由佐氏
ポリエステル製?
ベーやん学長
ベーやん学長
天然繊維だの!
例えるならば、シルクのさらっと滑らかな吸水性とカシミアの繊維の細さから生み出す柔らかさもあたたかさも兼ね備えた万能の毛並みなのだ
由佐氏
由佐氏
そうなんだね(笑)
ベーやん学長
ベーやん学長
触ってみるかの?

- -あの、早めに本題に入っていただけると...。ベーやん学長もあまり長くは現実の世界にいられないと思うので- -

※ベーやん学長は地球にまだ体が慣れていないため、1時間くらいしか活動ができない。

由佐氏
由佐氏
ウルトラマンみたいだね(笑)
ベーやん学長
ベーやん学長
モヘッ!それでは、気を取り直して!
吾輩は地球人を進化させるためにこの星にやってきたのだ。
地球の人間が進化するためには異なるエネルギーのミッドポイントである間(ま)に立つ在り方が必要不可欠だというのが吾輩の結論だの。
善と悪、静と動、心と体、あの世とこの世などなど、二つに分けられてしまったエネルギーでこの星は溢れかえっておるであろう?
分けることで分かりやすくはなったのであろうが、全く違うものとして永い間切り離されてしまったせいか本当はつながっているという感覚を人類は見失っておる
由佐氏
由佐氏
そうだね
ベーやん学長
ベーやん学長
さらに、驚愕したのは外側の世界を作り出しているのは内側の世界という吾輩の世界の常識がこの星では非常識と言われていることだの!
由佐氏
由佐氏
まぁ、普通は何言っちゃってんの?って思われるね(笑)
ベーやん学長
ベーやん学長
まさに。
しかし、そんな非常識と言われているようなことを由佐殿はメンタルモデルとして研究し構造化までやってのけた奇妙な変人というわけだ。
どのようにしてそこまで至ったのかを吾輩は聞いてみたいのだ
"聴く"ことで見出した人の内面の構造
由佐氏
由佐氏
そっか。一言で言うと発見したものなんだよね。
色んな人の悩みをただただ構造的に整理した結果として、あーこうなってるんだーって見つけちゃったものなの。
私も人の内側にある良いとか悪いとかっていう分離を統合しないとここからの人間の進化はないと思ってて。
人が”悪いことだ”としていることには、ほとんどの場合不快感がある。
そして、その不快感の根っこには幼少期の痛い体験が必ずある。

だから、もう二度とあんな想いをしなくていいようにと思考を発達させ、無自覚にそれを回避するための行動を卓越させる。
それでも、現実にはまた不快感を味わう体験がやってくる。
この一連のパターンがメンタルモデルを見出す過程において最初に構造として使えるって思った
ベーやん学長
ベーやん学長
ふむ、興味深い。
パターンの奥には皆が口々にいうような共通のセリフのようなものがあったのかの?
由佐氏
由佐氏
うん、そこは単純でね。
皆必ず『◯◯がない!』っていうのよ。
認めてくれないとかさ、つながれない、見てもらえない、とかっていう。必ず何かがないっていう表現をする。

どうして皆、共通して何かがないって言葉使うのかなあって探っていくと、なるほど、あるはずだっていう願いがとても強くあるからこそそれが”ない”ってあきらめられないんだねって気づいたって感じかな
ベーやん学長
ベーやん学長
なるほどの。
”ない”と文句を言うことができるのは”あるはずだ”があるから。
例えば、“認められない”という嘆きは”価値を認めてもらえるはず”と思っているからだ、と仮説を立てていった感じかの?
由佐氏
由佐氏
うん、そんな感じだね。
最初は不本意な現実って呼んでいる出来事から内面へ掘り下げていったの。不本意な現実は、人が引っかかってることや気になること、悩み、みたいな出来事のことね。そうしていくうちに、不本意な現実を創り出している人間の内面構造がなんとなく見えてきた。構造を可視化してあげると、本人も理解できてとてもすっきりして、なぜかその後、体験していた不本意な現実が変わりましたっていう声もあって。それが面白いなって思ったくらいなんだけど。
これけっこう使えるかも、と思ってその構造から人の話を聴いて紐解いていくことを繰り返していった結果、やっぱりそこには構造的なパターンがあるんだなって確信した。
そしてそのパターンの一番奥には、その人固有であり、かつそんなことを思っているって自分でも気づいていない無自覚な信念となっている、この世界や人に対する判決のようなものがある。
いろんな人たちの相談や悩みをこの構造から紐解いていくことをひたすら繰り返した結果として見つけたのが、その人も自覚していない、生存するためにいつのまにか出来上がっている、その人の内的世界の構造パターン。そしてその一番奥にある信念だったってわけ。
だから、自分で考えた理論でもアイデアでもないんだよね。相談された人たちから聞いたことを整理していっただけ。
痛みから現実までの内的構造
ベーやん学長
ベーやん学長
対話を通して発見したということだの。
そして、一番奥にある信念を形成したのは幼少期に体験したこの世界にあるはずものがないんだという欠乏・欠損の体験であると辿り着いたわけだの
由佐氏
由佐氏
そう。それを”痛み”って呼んでる
ベーやん学長
ベーやん学長
なぜ、”痛み”と呼んでおるかが気になるのだ!
地球上にはたくさんの言葉が転がっておるであろう?
二度と味わいたくないような過去の体験なら”トラウマ”という言葉が近いかもしれぬし、””という言葉でも良かったかもしれぬ。
なぜ”痛み”だったのだ?
固定観念がはりついていない言葉を選ぶワケ
由佐氏
由佐氏
そーねー、一番ニュートラルだったからかな。
言葉自体にもさ、すでに色んな”良い””悪い”の認識がこびりついているからさ。
例えば、トラウマって言葉にはずっと払拭できない過去の傷ついた体験っていうなんか深刻なイメージがある。
傷っていう言葉だったら、誰かに傷つけられた、っていう想定がある感じがする。
思考が介在した善悪や快不快といった二元的な認識で固定化されてしまっている言葉は反応を誘発するので、自分を観てもらうときには邪魔になる。そういう言葉はできるだけ避けたいんだよね。
一番そういう固定観念が言葉にはりついていない人の内側にあるものを表す言葉が痛み、だったの
ベーやん学長
ベーやん学長
普段から、ニュートラルな言葉選びは意識してるのかの?
由佐氏
由佐氏
うん、それは絶対的な要素だね。人の内側を扱う時は生存本能の反応をどう刺激しないか、がキモ。
これは思考で導き出したわけじゃなくて、人の内面を扱っているうちに感覚的に身に付いたものなんだけど。
良いも悪いもない中庸なあり方、見方がないと人の内面には関われない。
冒頭でベーやんも近いことを言ってた気がするけれど、極性の体験を通して中庸に立った時にようやく人は進化できる。
そのためには、何度も言うけれど良いも悪いもただあるものとして1つの円として陰陽を統合できている状態が必要。

だから、私自身のあり方もそうだし、使う言葉も良いとも悪いとも価値判断できないものを大事にしてる。
メンタルモデルもそうじゃん?
単語だけ聞いたら『え?何それ?』みたいなよく分かんない感じ。(笑)
だからこそ、そこに良いとか悪いとかって入り込む隙間がないのよ
ベーやん学長
ベーやん学長
面白いの!
ここまで深い意識から同じ種の命を扱う人間がおるとはの。
貴様の目の付け所は感服に値する!胸を張るが良いぞ!
由佐氏
由佐氏
どうも。(笑)
ベーやん学長
ベーやん学長
逆に由佐殿が吾輩に聞きたいことがあるならば、遠慮なく申してみよ。
吾輩は逃げも隠れもせぬ!
由佐氏
由佐氏
う~ん、なんだろうなあ~。...ご趣味は?(笑)
ベーやん学長
ベーやん学長
お見合いか!

- -じゃあ折角なので、私の方から由佐さんとベーやん学長に質問してみてもいいですか?- -

ベーやん学長
ベーやん学長
くるしゅうない!
由佐氏
由佐氏
どーぞー
”死んだ方がマシ”という絶望の奥にあるもの

- -由佐さんもベーやん学長も共通して言っていることの一つに、人間の進化には自分の内側をみるということが必要不可欠だというのがありますよね?なぜそれをしなければならないのでしょうか?- -

由佐氏
由佐氏
別に必要ないならしなくていいと思うよ
ベーやん学長
ベーやん学長
同感だの。強制するつもりもなんて全くないぞよ。
しかし、人間は体験をすべてがあっていいという愛から俯瞰しないと自己理解が進まず、進化しないのだ。生きていく上で拭えない違和感や生き辛さの奥には本当は何があるのか。
それはどう扱えるものなのかといったリテラシーは吾輩の世界の常識ではあるがの
由佐氏
由佐氏
人の中にあるものを色々扱わせてきてもらってきたけど、私が何が一番残念に思ってるかっていうと『人生で起きなければ良かったと思われてる過去の記憶』なんだよね
ベーやん学長
ベーやん学長
詳しく申してみよ!
由佐氏
由佐氏
例えばさ、あんな親の元に生まれなければ良かったとか。なんでこんなひどい目にあわなきゃいけないんだろう、早く忘れたいって思うようなつらい体験が人の人生にはたくさんある。
でも『あんな体験や環境がなければよかった』とか『こんな人生なんて生きても仕方ない』って自分の人生を呪うような生き方をしなきゃいけないのはすごく残念。だってそれはただ自分の人生に理解がなくてそう思い込んでるだけなんだから。人は痛みをなんとか切り離そうとする。体験を否定し、忘れ去ろうとする。でも、抱えている闇に光を当てられるのは”なぜその体験が自分の人生にあったのか””それは何のためにあったのか”といった理解しかない。
起こったことをないことにするのではなくて、起こったことを俯瞰して観察できれば私たちはなぜそれがあるのかを理解することができる。
不快な感情は何を私たちに気づかせたがってるのか。そういった痛みに対しての理解があれば、”あるはずだ”という自分が本当にこの世界にもたらしたい願いにつながって生きていくことができる。
人間の命というのはどんなに言葉を尽くしても足りないほど美しく作られているし、不快とされている感情も根っこはすべて愛。良いも悪いもない。
でも、自分の命の美しさに気づくどころか感情が伝えようとしてくれることも感じないようにして、痛みの裏側にある情熱を思い出せないまま一生を終えていく人は少なくない。
中には、ずっと自分の人生真っ暗で何の希望もないという呪いのような思い込みを握りしめながら死んでいく人もいる。
そういった”痛み”というものへの不理解なありようは私はすごく悲しい
ベーやん学長
ベーやん学長
吾輩も痛みに対しての理解がないこと。つまり、無知さは人類に対して思うことがあるの
由佐氏
由佐氏
そう、知らないだけなんだよ
ベーやん学長
ベーやん学長
吾輩が地球にやって来て最も衝撃を受けたのが”自殺”というものだの。
吾輩の世界には、自ら命を断つという行為が存在しないゆえに信じ難いものであった。
人の命というものを吾輩は今も探究を続けておるが、自殺というのは究極の痛みの回避行動なのであろう。
特に、若い世代の人々の自殺率がとても高いという事実は、いかにこの社会全体が人の痛みの扱い方に対して無知か。人が自分の痛みの扱い方を知らずに生きているかを物語っておると吾輩は思う
由佐氏
由佐氏
内側の痛みで死ぬ人間はいない、というのが私のセオリーなのね。
肉体そのものが傷つけられて死滅することはあるけれど、内側に感じる”痛み”で死ぬ人はいない。
外側の世界への絶望、そこに対して自分ができることは何もないという思い込みから来る無力感。
これらが揃えば人間を”死んだ方がいい”と思い込ませられるほどの大きなパワーになる。
でも、”死ねる”と思わせるほどの内側の痛みも「なぜこの痛みが自分にあるのか」という理解さえあればそれを抱える意味が見いだせる。
たとえどんなに耐えきれないと思うような不快さや痛みを伴うものだったとしても。
その感情のもっと奥にある、魂とも呼べる深いレベルの意識にとっては命を全うする半ばで自ら可能性を断ち切ることは不本意なはずだから
ベーやん学長
ベーやん学長
どれほどの絶望や怒りが押し寄せて来ようとも、それらの裏側には必ず諦めきれない強い願いと情熱がくすぶっておる。
そのくすぶった情熱こそが現実を自らの意志によって如何様にでも創り直せる創造者”クリエイター”として生きる源泉になるの。
クリエイターとして生きることが叶わない人間なんて本来いないのだ。
自分が体験している現実や世界というものは固定化されたものではないの。
人間は無自覚の信念というフィルターを通して現実を認識しておる。
このフィルターが認識できるものしか認識ができないようになっておるから、どんなに思考や行動を変えても、それを通してモノをみている内側にあるレンズの存在に気づかない限りは現実は固定化して変えることができないような錯覚に陥ってしまうの。
なぜならば、外側の世界を認識しているレンズそのものが固定化されておるから。
今の人間は思考と行動で外側でうまくやろうとする、つまり外の世界への適合者”アダプター”として生存している者がほとんどであろう。
だが、人間は内側も外側も両方を認識し扱える知性を持って生まれて来ておる。
思考をして行動にうつす、といった外側へ向かうエネルギーが悪いのではない。
だが、内側に対する”感じて受け入れる”というエネルギーが蔑ろになっているのが吾輩としては残念だの。
外側の世界だけに適合して生きていこうとするアダプターが人間の本質では決してないのだから

(後編はこちら